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阿倍比羅夫の蝦夷討伐
2016 / 09 / 04 ( Sun ) 20:01:43

あくまで個人的な論考です。時間がなく典拠等も詳しく記しておりませんがその辺はご容赦ください。
興味のある方は 続きを読む をクリックしてお読み下さい。

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能代 常盤~毘沙門沢
2013 / 04 / 13 ( Sat ) 00:19:22
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かっこいい名前がついてますね。

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ここを進めば、石川そばが有名な峰浜石川に抜けます。

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そして入ってすぐのところに毘沙門憩の森。

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反対側のトンネルを抜けて蛇行する米代線を延々延々と進めば、二ツ井梅内、さらに藤里町粕毛や大野台牧に出ることができます。実はこの道は古来から重要な役目を為していたものと考えています。

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このまま北上すれば、大柄地区で観光スポット「大柄の滝」もあります。が、今回は本家には立ち寄らず・・・・。
正面に館跡がみえますね。住所は館の下です。

この米代線は米代川以北の山間部を横断する道で、流通だけでなく人的交流も果たしました。藤里町粕毛室岱にある佐々木家は江戸時代の豪農で、この道を「ハタハタ道」と呼んで、遠く八森とを往来したといいます。ですが、それは江戸時代後期のこと。
最低でも戦国時代には重要な役目を為した道だったと私は考えています。ここでは多くは語れませんが、藤里町の歴史的位置づけ、大野台牧の存在、二ツ井種梅の館跡、そして車で北上したこの山間部の館跡や重要性、峰浜へ抜けて八森(海)へ出る道であることなどから、檜山を本拠地としながらも米代川以北の地域に重要な意味があったものと推測しています。

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能代 常盤~毘沙門沢
2013 / 04 / 11 ( Thu ) 00:26:40
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現在、米代川流域で山間部の入り口常盤本郷が中心地となっていますが、かつて鎌倉時代には長崎郷という地名がありました。

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つまり村の事ですが、鎌倉時代に行政区分としての「郷」が成立し、記録に残っていたという事は歴史的意義が大きいと思います。

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おそらくは常盤本郷ではなく、もっと入った地域だったと考えられます。

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戦国時代でも石高(米の生産高)が高い地域で檜山城主安東氏の分限帳でもそれを知ることができます。

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この地域は重鎮大高甚助が代官を務めており、この山間部に館跡が散在することでも重要な地域だったと推測できます。
写真中にも密かに2ヶ所館跡を写しています。

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今が田舎だからといって馬鹿にはできません。
戦国時代以前は、平野部にほとんど田んぼはなく、棚田が示すように水源が豊富な山間部に人々は住んでいました。

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というよりも、有力者こそがそこに支配拠点を置いたのです。重要なのは水源です。

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平野部の大開発が進んだのは江戸時代初期です。各市町村史を確認すると、どこの市町村も概ね生産高が3倍に増加しています。当然人口も増加します。

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この大開発を推進したのも帰農した戦国武士やその子孫でした。
地元で言えば、檜山城主安東氏の家臣団です。

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ちなみに田舎を示す方言「じゃんご」の語源は、「在郷」だと考えられます。町に住む人々が村や郷に住む人々(百姓とか農民とはあえて言いません)をこう呼んだのでしょう。
近代になって農村が解体され近代化が進むにつれて「田舎」を意味する時には侮蔑、時には自らを卑下するニュアンスに変化していったのではないかと思います。



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能代 扇田大館
2013 / 04 / 10 ( Wed ) 00:00:32
数年前、携帯にカメラがやっとついた頃に撮った写真なんでめちゃくちゃあらびき団な
画像ですがご容赦ください。

知る人ぞ知る史跡です。
吾作ラーメン東能代店の後方の小高い山は、一見普通の山にしか見えませんが、
じつは戦国期の城館跡です。大館とゆうくらいですから、画像ではわかりづらいです
が山の上に広大な平地が広がっています。
さらに奥へ進むとさらに平地が広がっており、広大さにただただ驚きます。
でも簡単に登れますよ。マーヒーなら是非一度。

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ここは檜山城の支城の一つで、檜山への入り口に位置していることから軍事的にも重要
な役割を負った城だったと考えられます。

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能代 竹生天神
2013 / 04 / 06 ( Sat ) 00:14:16
グーグルさんからちょっとお借りした航空写真の画像ですが、伝承によれば、
当初①の場所に勧請された菅原神社を拡大写真の地(右の赤い屋根)に移転
したとのことです。それが1687年とのことのようです。江戸時代に入って80年
以上経ってからのことです。

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では、このこんもりした古墳のような丘は戦国時代にはなんだったのかということです。
自分は、中世のこの地域の領主層の館跡(小さな城跡)ではないかと考えています。
当然発掘調査をしなければなんともいえませんが、実はこうした形状の館跡がそこかしこ
にあることを私たちは気づいていないのです。
近年まで竹生字丸の内と云う小字地名がこの地域にあったので、可能性はかなりあると
思います。
平地部分はいつ?なんのために?造成したのかというのもポイントで、近代でなければ
そこが居住スペースで周りが土塁だったとも推測できます。落合の小館塙もこんな感じ
ですね。

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こちらは竹生地区の航空写真ですが、中央部の敷地2ヶ所は現在墓地になってますが、
やはりここも館跡あるいは領主層の屋敷だったと推測しています。いわゆる郭(くるわ)が
最低2ヶ所あって郭と郭の間が掘り切られています。実際現地で確認しました。
まあ素人の目ですけど

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この近隣地では、比八田字平泉に平泉館、磐字館の下(小土地区)にも1ヵ所、鳥潟字十兵衛館
にも1ヵ所、須田地区の立子道という小字地名は館小道の漢字転化と考えられます。
向能代地区では、金山、真壁地、荷八田、朴瀬、築法師と米代川流域に館跡が分布し、一つの
部落(地区)に1ヵ所はあると考えてもいいぐらいです。
古代蝦夷討伐以来、戦国時代までの間、防御施設あるいは領主層の居住地として存在していた
ものと考えられます。






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能代 館の下
2012 / 11 / 13 ( Tue ) 22:15:25
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自分のルーツともいえる地(本籍地)です。

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米代川流域北部に位置し、常盤本郷地区から大柄地区までの長細い谷あいの地形になっています。
越前の戦国大名朝倉氏が居城した一乗谷みたいな感じですかね。

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入り口の苅橋地区両脇に二ヶ所、天内地区、山谷地区、大柄地区のそれぞれに1ヶ所の城館跡がありますので、歴史的には決して侮れない地域です。

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大柄地区の手前に「館の下」という地名が残っていますので、ここが館跡でしょう。

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こんな奥地になぜ館が必要だったのでしょうか。おもしろい秘密が隠されているかもしれません。

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神明岱というところの入り口ですが、このこんもりした小山はなんでしょうか。

戦国期にこの地域を知行していたのも檜山安東氏の重鎮大高甚介季時でした。
常盤という言葉は、「永久に、とこしえに」といった意味のようです。なぜこんな地名になったのでしょうか。


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(特別編) 函館 志濃里館
2012 / 11 / 12 ( Mon ) 00:10:55
檜山安東氏の勢力圏の館跡なので特別に。

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函館空港近くに位置する志濃里館は、室町期の館跡で安東氏の配下として小林氏が館主だったと伝わっています。

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小林氏の出自は上野国(群馬)から来往した昆布商人と伝わっているようですが、武士商人と呼んだ方がより正しいと思います。

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坂東平氏で秩父党と呼ばれた武士団から数流の小林氏が派生していますので比較的信憑性のある言い伝えではないかと思います。

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昭和43年、工事中にこの館跡から37万枚の莫大な中国古銭が出土したらしく、埋蔵金騒ぎにもなったようです。1400年代のものと判明したため、まさに小林氏が居館した時代となります。

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安東氏の一配下で、十二ある館のうちの一つにこれだけの財があったわけですから安東氏の交易力、財力には驚かずにはいられません。

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地元に多い小林姓のルーツの一つになり得ると思います。


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能代落合 小館塙
2012 / 11 / 01 ( Thu ) 01:14:58
能代市落合にある小館塙(小楯塙)というところです。能代山本組合病院の裏側の方になります。
まさかこんなところに史跡があったなんて自分も思いもよりませんでしたが、伝承によれば江戸期には番所があったらしく、戦国期には戦国大名檜山安東氏の重鎮大高勝澄が居館したともいいます。交易上寄港地としての米代川河口を管理していた場所だったと理解しています。
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敷地は土塁で囲まれています。
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小さな丘からは米代川と対岸の能代公園が望めることがわかります。
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一方で戦国期の野代(能代)城がどこだったのかという議論があります。野代城代大高伝右衛門安時という人物がいたため、落合小館塙が野代城だったという意見があります。町人文化が栄える能代町の始まりも米代川対岸にあった落合からだったともいいます。
しかしながら、私見では能代公園が野代城で、落合小館塙はまた別だと考えています。野代はかつて「ぬしろ」とも呼ばれていたために、現在も「渟城(ていじょう)」とゆう漢字表記がされ幼稚園や小学校の名称に用いられています。代と城の意味・解釈には多様な意見・見解がありますが、地名ほど現代人が解釈・理解するのが難しいものはありません。なぜなら、地名の由来に関する資料が残っていないこととその起源は江戸時代などではなく、相当遡る可能性が高いからです。
いずれ大高氏を名乗る人物も同一人物ではなく、近親一族と思います。現在の常盤本郷地区の近くにあった常盤大館の城主も大高康澄と伝わり、名前の通字からみてもこれも近親一族と考えられます。
のちほどアップしますが、風の松原近くにある曹洞宗寺院「長慶寺」の由緒によれば、戦国期に田代(北秋田郡田代町)から落合小館塙に移り、さらに江戸期に能代市内に移転したといいます。この寺院はその名からも南朝3代長慶天皇にゆかりがあると考えられるため、このこと一つを考えても落合小館塙にポテンシャルを感じずにはいられないところです。

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能代 檜山城
2012 / 09 / 20 ( Thu ) 00:02:36
戦国大名安東氏の居城檜山城跡の麓にある多宝院。この寺は江戸時代藩主佐竹氏ゆかりの寺院です。

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多宝院の境内にある桜。人の大きさは左端の枝が垂れているところ辺りです。すごい大きいです。

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入り口にそびえる巨大杉。車の大きさをよ~く見てみてください。とにかくでかいっ

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檜山城跡からの能代市展望

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戦国時代の檜山城城主は安東氏といい、歴史的にも*#$%?!”&?・・・・・
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